熊の10倍、報道はゼロ ― 鹿被害が農林業を壊している ―

熊が人を襲う事件は連日ニュースになっています。しかし、農林業に対してより深刻な被害を与えているのは、意外にも「鹿」です。

MRD通信

鹿は、熊ほど恐れられていません。観光地ではかわいい動物として扱われることもあります。

しかし農林業への被害で見れば、実態はまったく違います。令和6年度の農作物被害額を見ると、鹿による被害は79億円。熊被害を大きく上回ります。熊が「目に見える恐怖」なら、鹿は「見えにくい破壊」です。

野生鳥獣による農作物・森林被害は今や日本全体の構造問題であり、中山間地域のビジネス・地域経済に直結する課題となっています。

熊による被害が社会問題として認識されたのは、2023年以降のことです。令和5年度の熊による人身被害件数は197件・218人、死者6人でした。翌令和6年度(2024年)は過去最多を更新し、238人が被害を受け13人が死亡しています。2025年度も4月〜8月の時点で69人の被害が報告されており、「過去最悪ペース」が継続しています。ヒグマに一度遭遇した場合の死亡率は24%とされており、もはや「運悪く出会った」では済まない水準です。

また、農作物被害額は令和5年度で約7億円です。前年比で増加しているものの、野生鳥獣の中では突出した規模ではありません。しかし熊が引き起こす「見えない損害」は大きく、農作業者の心理的恐怖、中山間地における人手不足・離農の加速、観光業への影響など、経済統計には現れにくい問題が積み重なっています。

鹿の被害は熊ほどメディアに取り上げられません。しかし数字を見れば、経済的打撃の深刻さは熊を大きく超えています。

令和5年度の鹿による農作物被害額は約70億円です。これは熊の約10倍です。野生鳥獣の中で最大の加害者となっています。林野庁によれば、野生鳥獣による全国の森林被害面積(約4,000ヘクタール)のうち、約60%を鹿が占めています。

鹿による被害は農作物の食い荒らしにとどまりません。

  • 植栽地の壊滅:苗木や造林木を根こそぎ食べ、再造林コストを無駄にします
  • 成木の剥皮:樹皮を一周剥がれた木は枯死します(「鹿剥ぎ」)
  • 下層植生の消失:山の斜面を覆う草本・低木がなくなり、土壌が露出します
  • 土砂災害リスク:地表を保持する植生が失われ、土砂流出量が最大2倍になった事例もあります

2024年7月、滋賀県伊吹山では鹿の食害が引き金となった土石流が1カ月で3回発生しました。奥多摩では土砂流出によって取水施設が機能停止した事例もあります。食害はもはや農林業の問題だけでなく、インフラ・防災の問題にまで波及しています。

森林総合研究所の2023年の研究によれば、現在のニホンジカの個体数は過去10万年で最大級に達している可能性があります。その主因は気候変動でも天敵の絶滅でもなく、人間による捕獲圧の低下です。

本州以南の推定個体数は2013年の約258万頭から捕獲強化により一時減少しましたが、2022年には再び約246万頭へと増加に転じています。年間約73万頭が捕獲されているにもかかわらず、増加傾向を抑えられていない状況です。

背景にあるのはハンターの高齢化・減少と、温暖化による積雪減少(豪雪地帯での越冬生存率の向上)という二重の構造です。

①ICT・AIによる捕獲の効率化

群馬県が導入した「AIゲートかぞえもん」は、囲いわなへの侵入頭数をAIが自動カウントし、設定頭数に達すると自動でゲートが閉まる仕組みです。兵庫県ではIoTを活用した「スマートトラップ」120台を一括導入し、わなへの捕獲をスマートフォンで遠隔確認できるようになっています。これにより、1人のハンターが管理できるわな数を飛躍的に増やすことが可能になっています。

②防護柵の設置

電気柵・金網フェンスによる農地保護は即効性が高い方法です。ただし、広大な森林全体への対応は現実的でなく、農地・植栽地への局所的活用が主体となります。

③ジビエとしての利活用

捕獲された鹿のうち食肉(ジビエ)として流通するのはわずか2割程度で、残りの約80%は廃棄・埋設されているのが現状です。農林水産省はジビエ利用の推進を政策に掲げていますが、山中からの搬出コスト・処理施設の不足・需要不足という三重の壁が立ちはだかっています。皮革・ペットフードへの転用も模索されています

見落とされがちな事実として、鹿の増加が熊の人身被害を助長していることがあります。雄の熊は鹿の個体数が多い地域で鹿を捕食する割合が増え、餌を求めて市街地に近づく「アーバンベア」問題の一因ともなっています。鹿問題の放置が熊問題のさらなる悪化を招く構造となっており、両問題は切り離して考えることができません。

野生鳥獣問題は、中山間地の農林業者・市町村・観光業者にとって「他人事ではないリスク」として捉えなおす必要があります。

ICTスタートアップ領域:スマートトラップ・遠隔監視・個体数推定AIなど、農林業×テクノロジーの領域は補助金が手厚く、市場が立ち上がりつつあります

農業参入・新規就農リスク:中山間地での農地取得・活用を検討する場合、鳥獣被害のリスク評価と防護柵コストを事業計画に組み込むことが必須です

林業・植栽への影響:造林補助金を活用した植栽事業でも、鹿食害対策費が追加発生するケースが増えています

ジビエビジネスの可能性:廃棄率80%という現状は「チャンス」の裏返しでもあります。冷凍流通・加工・食肉以外の素材(皮革・ペットフード)など、川下から入る事業モデルに余地があります

「なぜ鹿はニュースにならないのか」――それは、鹿が人を直接傷つけないからです。しかし農林業への累積的損失は、熊の10倍以上にのぼります。静かに、しかし確実に、日本の農地と森林が失われています。派手な事件より、静かな構造崩壊のほうが、長期的には致命的である場合があります。

人が減る。山に手が入らなくなる。農地が維持できなくなる。それでも、地域をどう守るのか。鹿害とは、野生動物の問題であると同時に、人間社会の管理能力が問われている問題でもあるのです。

鹿の問題は、これからの日本の地域社会にとって、かなり重要な問いを投げかけています。